歴史フリークな書作家がゆく中国 西安~敦煌 -複習編3/4 @敦煌-

コラム

人生の大きな仕事をひとつ終え、ついに長年の夢だった敦煌を含めた中国シルクロードへの旅に行ってきました。一生に一度は訪れたいと願い続けてきた場所です。

この旅の記録を「予習編」と「復習編」の2本立てで綴りました。「予習編」もあわせてご覧ください。

この「復習編」では7日間にわたる旅の記録を時系列でご紹介します。また、今回の旅で役に立った中国語やアイテムについてもご紹介したいと思います。

  1. 西安周辺 -帝都の余韻にひたって
  2. 張掖周辺 -見上げれば虹、足元にも虹
  3. 敦煌周辺 -砂漠に癒やされて
  4. 旅の教訓 -中国西域旅行で得たリアルなヒント

本ブログ内で紹介している情報は、現地ガイドさんから伺ったお話をもとにしています。確認が取れていない内容や、聞き間違いの可能性もありますので、あらかじめご了承ください。より正確な情報については、敦煌研究院などの公的資料をご参照いただければと思います。

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5日目:敦煌

気温は涼しく、薄手の上着があっても問題ないくらい。ただ、これから暑くなるとのこと。

莫高窟の前を流れる川沿いには、青く裏が白い葉を持つポプラの木がたくさん植えられている。ポプラの葉っぱの風のざわめきは鬼の拍手と言われるとのこと。

ポプラの葉

莫高窟(ばっこうくつ)

日本語音声のヘッドホンで2本のムービーを鑑賞(見学には必須)。その後、バスで莫高窟へ向かう。観光客を整理していたのは、黒いスーツ姿の大柄な男性ばかりで、警備の厳しさを感じた。

同じツアーのWさんが素敵な俳句を教えてくださった。

若葉して御目の雫拭はばや
―芭蕉


このやわらかい若葉で、鑑真和上の目に浮かんだ涙をそっと拭って差し上げたい――そんな想いが込められた句だという。いつか作品にしたい。

日本語ガイドさんの案内で、いくつかの石窟を巡る。どの窟に入れるかは日によって異なるらしい。今回は他のツアーの方々と一緒に見学。窟内は撮影禁止。

【45窟】

有料窟ということで、私たちは中に入ることができず、外で10分ほど待機することに。ここまで来て見られないとは……。追加料金を払ってでも見学したい気持ちだった。

仕方なく、イヤホン越しにガイドの説明だけを聞いていたが、どうやら唐時代の非常に優れた塑像が安置されているらしい。声だけで想像するしかないのが、なんとももどかしい。

【331窟(初唐)】

莫高窟の中で最も大きな窟。天井は、圧力を分散するために階段状に掘られた伏斗形(ふくとがた)構造となっている。一部損傷している箇所からは、制作当時の工程がうかがえ、興味深い。下地となる漆喰の厚さは想像以上で、20cmほどはあるように見えた。

天井を舞う飛天や壁面の精緻な絵画表現は圧巻で、初唐ならではの優雅さと緻密さが際立っている。

ただし、清代に復元された塑像の出来栄えは今ひとつ。オリジナルに比べるとやや粗雑で、全体の美しさの中で違和感が残った。

【16・17窟「蔵経堂」】

16窟は晩唐時代の制作で、のちに西夏時代に上書きされたとされる。もしそうであれば、井上靖氏の小説『敦煌』に描かれた「西夏初期に文書を隠した」という設定は、やや時代が早いことになるかもしれない。

それぞれの窟が、いわば一族ごとの「家の寺」として建立されたとのことだが、後の時代に上塗りするとは、まるで托卵するカッコウのようにも思える。

17窟は、もともと「洪べん」という僧侶を祀るための窟で、彼の像が安置されている。映画『敦煌』のように空っぽな部屋ではなかった。その像の内部、背中の中から文書が発見されたという。同じ漢字がずらりと並ぶ手習いの紙などが含まれており、なぜそのような文書が像の内部に保管されていたのか、興味は尽きない。

さらにその小部屋には、経典や仏教絵画など、5万点を超える文書が隠されていた。そのうち1万点を残しほとんどが、日本を含む海外に持ち出されたとされる。出土品の一部は、この後に訪れる博物館で見ることができる。

【23窟 盛唐(8世紀)】

正面手前の菩薩像が、まるで「いらっしゃい」と優しく迎え入れてくれるようなお姿なのが印象的だった。

壁画の色彩にも目を奪われる。青はアフガニスタン産のラピスラズリ、緑は孔雀石、赤は赤土が原料。肌の色はもともと赤みを帯びていたようだが、顔料に含まれていた鉛が水分と反応したことで、現在では黒く見える。おそらく朱色の丹が使われていたのだろう。

【259窟 北魏(5世紀)】

北魏時代の窟で、法華経に基づく二仏並坐像が仲睦まじく並び、穏やかな表情で鎮座している。鼻筋の通った端正な顔立ちは、ガンダーラ美術の影響が色濃くうかがえる。

椅子に腰かける菩薩の姿は、エジプトやインド美術との交流を感じさせ、特にクシャーナ朝のカニシカ王時代の面影が重なるようだ。

当時は戦乱が続いており、人々は平和を切に願って窟を築いて祈りの場としたという。その信仰心の深さが、今もなお岩肌に刻まれている。

【249窟 西魏(6世紀)】

約1400年前、西魏時代に造られたこの窟は、北方民族との融合を象徴する貴重な遺構。天井には当時の暮らしぶりが細やかに描かれており、狩猟や宴の場面から当時の文化や風俗をうかがい知ることができる。

特に印象的なのは、馬上の男性が足元の虎に弓を引き絞る狩猟の場面。その中に登場する一頭の牛は、輪郭線のみで描かれた「線描」の技法が用いられており、ガイドさんも一押しの見どころだという。

しっかりと彩色された絵の中に、こうした線描の動物が点在しているのは興味深い。未完成のまま残されたのか、あるいは意図的な表現なのか――謎めいた余韻を残す空間である。

【244窟 隋(6〜7世紀)】

この窟は、過去(迦葉仏)・現在(釈迦仏)・未来(弥勒菩薩)の三世仏を表現しており、隋時代ならではの仏教観を感じさせる構成となっている。

ガイドさんによれば、隋時代の仏像は唐時代の洗練された造形に比べて、上半身が大きく短足で、ややバランスが悪いとのこと。たしかに、どこかずんぐりした印象は受けたが、それでもその穏やかな表情とどっしりとした安定感には独自の美しさが感じられた。

中国では戦乱の影響により、隋唐時代の木造建築は現存していないという。そのため、壁画に描かれた当時の建物の姿はとても貴重。その壁画に描かれている建物と酷似している建造物が唐招提寺であると聞き、なんだか誇らしい気持ちになった。

【96窟 初唐(7世紀)】

莫高窟の象徴ともいえる九層楼は、この窟に安置された巨大な坐像、弥勒仏(未来仏)を覆うための覆堂(おおいどう)である。

この仏像は、唐の女帝・武則天の命によって造営されたと伝えられており、全高約35.5mという圧倒的なスケールを誇る。現在、顔と上半身は近代に修復されたものだが、足元の部分は唐時代当時の造形がそのまま残っている。特に注目すべきは足の指。爪がわずかに伸びており、細部にまで写実性を追求した当時の造仏技術の高さがうかがえる。

九層楼は木造の楼閣で、赤褐色の外観が青空に映え、莫高窟を訪れる人々の目をひときわ引きつける。砂漠の中に突如そびえるこの楼閣と、内部の大仏の姿は、まさにこの地における仏教信仰の象徴といえるだろう。

敦煌博物館

17窟から出土した文書が博物館に陳列されている。この敦煌文書を発見したのが王円籙である。

各時代の資料がいずれも興味深かったが、特に肉筆による北魏時代の書に強く惹かれ、時間をかけて探した。というのも、北魏の書といえば「張猛龍碑」や「牛橛造像記」に代表される石碑の楷書しか見たことがなかったからだ。

北魏時代の肉筆の書では、始筆が深く力強く、「立春」の「春」の左払いのように、あまり見かけない独特な筆づかいも見受けられた。ただ、石碑に見られるような北魏楷書特有の前傾した字形はあまり見られない。むしろ、右払いに勢いがあり、部首「戈(ほこ)」が右方向に大きく強調されている点が印象的だった。

北魏時代の肉筆

莫高窟の見学を終えて

個人的には、北魏時代の仏像に特に惹かれる。お顔にはなんとも言えない柔和な表情があり、唐時代の写実的な作風とは異なる、やや抽象的で独特な身体のバランスや衣の表現が、かえって天上の世界を思わせるようで美しい。

ただし、多くの仏像の尊顔は、後世の清時代に修復されているものが多い。その修復は、顔立ちが不自然だったり、塗りがベタ一色で立体感に乏しかったりと、美術的なセンスに疑問を感じるものも少なくない。正直に言えば、「これが修復なのか…」と戸惑うこともしばしばであった。

鳴沙山(めいさざん)と月牙泉(げつがせん)

莫高窟での約5時間におよぶ充実した見学を終えた頃には、日差しの強さと窟前での待ち時間によって、かなり体力を消耗していた。さらに、あてにしていたホテルでの休憩がキャンセルとなり、予定していた体力の配分が大きく狂ってしまった。すでに歩くのもつらいほどだったが、一行はそのまま鳴沙山と月牙泉へ向かった。

月牙泉に癒されて

祁連山脈(きれんさんみゃく)を水源とする湧水が砂漠の中にぽっかり現れる月牙泉。2組ほどの観光客に写真撮影の場所を譲る程度に人の少ない特等席で、湧水がちょろちょろと流れる音を聞きながら、ぼんやりと月牙泉越しの鳴沙山を眺めた。体は疲れていても、心は静かに満たされていく。

鳴沙山(右)と月牙泉

ほとりの道教寺院の売店で食べた緑豆の棒アイスが、不思議なほど効いた。甘さ控えめでとても美味しく、しばらくすると体がすっと軽くなるのを感じた。どうやら低血糖になっていたらしい。

体力の恩人

最初はとても無理だと思っていた向かいの砂丘に、登ってみる気力が戻ってきた。

砂丘のむこうには

砂山には、歩幅に合わせた梯子のようなステップが設置されており、一歩一歩ゆっくり登れば、それほどつらくない。頂上まではおよそ15分。登り切った達成感はひとしお。

砂丘登山の行列

てっぺんからは、広がる砂丘の連なりが見えることを期待していたのだが、実際には目の前の大きな砂丘に視界を遮られ、遠くの砂丘が隙間からかろうじて覗ける程度。やや期待とは異なる景色だったが、それでも高所から見渡す鳴沙山と月牙泉は格別だった。

てっぺんの奥に広がる砂丘

下りは40元でそり滑りができるというので試そうとしたが、支払いはQRコード決済のみ。現金不可ということで断念し、徒歩で下山することに。靴の中に入り込む砂でサイズがどんどん小さくなり、つま先が痛む。それでも、下りの一歩一歩は歩幅の倍ほど進む感覚で、あっという間にふもとに戻ることができた。

白馬塔 … 鳩摩羅什ゆかり

夕食後、白馬塔へ。この塔は、鳩摩羅什が仏教経典を中国へ運ぶ際、経典を載せていた白馬がこの地で命を落としたことを悼み、供養のために建てられたものだという。

塔の前の広場では、私たちのために地元の方々が龍の舞を披露してくださった。およそ40名ほどの踊り手が色鮮やかな龍や旗を操りながらの活気あふれる演舞。「葡萄の美酒 夜光の杯」で知られる夜光の杯には地元産の莫高窟ワインが注がれ、ミニトマトやキュウリとともに、旅人をもてなしてくれる。まさに個人旅行では味わえない、温かな交流のひとときだった。

夜光の杯

白馬塔の隣、畑の一角には漢時代の城壁の一部が残されており(沙州故城)、かつてこの地に敦煌の城が築かれていたことを物語っている。足元には、鋭い棘を持つ「ラクダ草」が点在しており、名前の通り、これをラクダが食べるのだという。

漢代の沙州故城

敦煌(沙州)夜市

白馬塔からの帰り、宿泊していた敦煌賓館から2〜300メートルほどの夜市にバスから降ろしてもらった。北京よりも日の入りが1時間ほど遅いため、夜の8時を過ぎてもまだ空は明るく、夜市の灯りはまだ点いていなかった。

干し杏とヤギのミルクを使ったヌガーを、試食のうえ購入。どちらも味が濃厚でおいしい。

夜市を歩いていると、ふとかわいらしいラクダのぬいぐるみと目が合った。気になって通り過ぎたものの、やっぱり忘れられずに3往復。ついに決心し、連れて帰ることに。

満足して夜市を出たところで、はたと気づく。「ホテルはどっち?」
お巡りさんにホテル名を告げて尋ねると、「まっすぐ行けばいい」と言うが、もう9時を過ぎていて、これ以上迷いたくないという不安が募る。

念のため、地図アプリ「百度地図」でルートを確認。お巡りさんと一緒に画面を見て、方向を再確認して、無事ホテルに到着。ほんの短い夜の冒険だったが、記憶に残るひとときとなった。

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6日目:敦煌

敦煌市内から西へ100kmあまり、バスで約1時間半の道のりを走り、玉門関へ向かう。若い運転手のKさんは運転が実に上手く、路面の凸部を巧みに避けながら、ブレーキもソフト。乗り心地が良い。

車窓からは見えないが、疏勒川が東から西へと流れていく。この川はかつて約350kmも物資を運ぶ、長安と西域を結ぶ重要な水路だったという。

途中、狼煙台(のろしだい)が点在する。狼煙台同士の距離は2.5km。敵の襲来を煙で知らせるこの施設が、かつてどれほど切迫した時代を支えていたのか想像すると、静かな荒野にも緊張感が漂う。

また、道中には映画『敦煌』のロケ地が見えた。道の南側、砂丘を背景に建てられたセットが、今は観光施設として使われているとのこと。乾いた風のなかに、映画の名シーンがよみがえる。

映画『敦煌』のロケ地

やがて、鳴沙山から連なる砂丘が途切れ、風景は岩山へと切り替わる。自然の移ろいの中に、かつてのシルクロードの面影が重なって見える。

玉門関 … 西域からの侵略を防ぐ重要な軍事拠点

古代中国の最西端に位置した関所、玉門関。漢代には、ここが国家権力の及ぶ最後の地点とされ、これより先は「西域」──未知と異文化の世界──とされた。旅人や兵隊にとってはまさに覚悟を要した境界だった。

発掘された文献の内容などから、ここがその玉門関で間違いないのではないかとされている。見渡すかぎり、砂と礫ばかりの荒涼とした大地、家ひとつない。ただそこに、上部の欠けた正四角錐のような土の構造物が、ぽつんと立っている。その姿に、時の重みと孤高の気配が漂う。

双眼鏡を覗くと、点々と続く古の構造物の痕跡が見える。漢代の万里の長城だろう。その遥か彼方に祁連山脈の白く輝く雪山。あらためて、中国という国の広さを思い知らされる瞬間だった。

日差しは強いが暑くはない。

漢長城

玉門関から遠くに見えた、漢代の万里の長城の遺構へ。乾いた大地に溶け込むように、土で築かれた壁が静かに続いている。その姿は、2000年もの風雨に耐えながらもなお、そこに「存在し続けている」ことの重みを感じさせる。

長城に点在する狼煙台の傍らには、実際に狼煙を上げるために使われた燃料が今も残されていた。狼の糞を混ぜると煙が黒く濃くなり、遠方からもはっきりと視認できたという。これが「狼煙」の名前の由縁だという。

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旅の終わりに

今回の少し珍しい場所を巡るツアーにどうして参加したのかという話題になったとき、私は「ずっと西域にあこがれがあって、中学生の時などはいつかタクラマカン砂漠で果てたいと思っていた」と話しました。

西安に戻った後、最後の晩餐の席でその話題が再びのぼりました。するとWさんがにっこりと、「でもね、鳴沙山はタクラマカンじゃなくて、ゴビ砂漠だよ」と一言。「それじゃあ、まだ果てられないですね」と笑いながら、旅を締めくくりました。

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