歴史フリークな書作家がゆく中国 西安~敦煌 -複習編1/4 @西安-

コラム

人生の大きな仕事をひとつ終え、ついに長年の夢だった敦煌を含めた中国シルクロードへの旅に行ってきました。一生に一度は訪れたいと願い続けてきた場所です。

この旅の記録を「予習編」と「復習編」の2本立てで綴りました。「予習編」もあわせてご覧ください。

この「復習編」では7日間にわたる旅の記録を時系列でご紹介します。また、今回の旅で役に立った中国語やアイテムについてもご紹介したいと思います。

  1. 西安周辺 -帝都の余韻にひたって
  2. 張掖周辺 -見上げれば虹、足元にも虹
  3. 敦煌周辺 -砂漠に癒やされて
  4. 旅の教訓 -中国西域旅行で得たリアルなヒント

本ブログ内で紹介している情報は、現地ガイドさんから伺ったお話をもとにしています。確認が取れていない内容や、聞き間違いの可能性もありますので、あらかじめご了承ください。より正確な情報については、公的資料をご参照いただければと思います。

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2日目:西安周辺

1日目は移動日です。2日目から名所めぐりが始まりました。

唐大明宮国家遺跡公園 … 史上最大の王宮跡

朝からあいにくの雨、と思いきや、昨日は40℃近い猛暑だったとのこと。「雨が降って気温が下がってよかったですね」と、ガイドのSさん。ともかく早速予習編でご紹介のレインコートが大活躍。

歴代最大の宮殿という唐大明宮を復元した公園に。かの阿房宮(あぼうきゅう)よりも大きかったのだそう。秦始皇帝が建てた阿房宮は、3ヶ月もの間燃え続けたといわれるほど大きかったのに。ただ、ガイドSさんが言うには、阿房宮が燃えたというのは間違いで、実際には燃えた跡がないとか。

阿房宮(あぼうきゅう)
中国の秦の始皇帝が、渭水(いすい)の南に建てた大宮殿。秦を滅ぼした項羽が火を放ったが、3か月燃え続けたという。遺跡は、西安市の西方に残る。

デジタル大辞泉 小学館

秦始皇帝陵 … 秦の始皇帝が眠る穏やかな地

雨の中、秦始皇帝陵へ。見学者は私たちだけ。

2200年も維持できる土木技術:版築

宮殿を模して築かれた墳墓であり、周囲には城壁の跡が残っている。アスファルトの道路に切り取られた断面からは、当時の版築工法の様子がうかがえる。2200年も保たれている万里の長城を築いた技術の高さを、改めて実感。

版築(はんちく)
中国式の土壇・土壁の築造法で、板枠の中に土を入れて突き固め、層を重ねてつくるもの。古代から現代まで行われている。

デジタル大辞泉 小学館

水銀の川は実在した!

敷地内にはザクロのオレンジ色の花が咲いていた。ぱっと目を引く鮮やかさで、生命力があって、なんとも中国らしい花。一方で、司馬遷の史記に「陵墓には水銀の川」とあるように、この辺りは土壌の水銀濃度が高いためザクロにも水銀が含まれており食べられないと。

小篆を作ったはずなのに

今は50mくらいの高さになってしまった墳墓が見える。気になったのは、最近建てられた始皇帝陵の石碑。秦始皇帝といえば、各地で使われていたさまざま文字=大篆を統一して小篆をつくったことで有名ですが、この石碑は小篆で書かれてはいない気がする。なぜでしょう。

皇帝たちのお墓事情

墳墓の場所は、その時代ごとの風水思想に基づいて選ばれているという。始皇帝陵はとても気持ちのいい場所、始皇帝はさすが先見の明がある。

西安周辺には数十の皇帝陵があるが、盗掘を免れているのは、唐代の第3皇帝 高宗とその皇后である武則天(日本では則天武后の名で知られる)が合葬された乾陵(けんりょう)だけらしい。天然の山を陵墓として利用したため、手がつけられなかったという。

ちなみに中国では文化財保護のため墳墓の発掘は禁止されている。日本の高松塚古墳のような例(壁画がカビてしまった)もあり、出土品を完全に元のまま維持させるのが難しいという謙虚な姿勢。唐の2代目 太宗の昭陵には王羲之の真筆がまだあるかも、という期待をもってしまう。

兵馬俑坑 … 始皇帝の忠実な部下たち

さすがに観光客が多い。外国人は少なめでほとんどは中国の方。兵馬俑坑は1号坑から4号坑まであるが、4号坑は埋め戻されているため見学できるのは3号坑まで。

兵馬俑はなぜ1体1体違うのか?

1号坑にはおびただしい数の兵隊の俑が整列している。どれ一つとして同じ姿をした者はいない。ガイドのSさんはその理由として次の説明をしてくれた。

男兄弟が複数いる家庭では、一方が兵士となり、もう一方が俑を作る職人となることがあったという。職人となった者は、戦地へ赴いた兄弟を思いながら、ひとつひとつ俑を製作した。そのため、兵馬俑の姿かたちは画一的ではなく、千差万別であるとされていると。

土壁上部のうねった部分には木製の梁があったらしい

整然と並べられた兵馬俑にも驚かされたが、発掘されたばかりの、雑然と積み重なった姿に心を動かされた。経てきた年月の長さを感じられるからだろうか。

兵馬俑からわかること

身分や出身地は、俑の服装や体格から見て取れるという。2号坑に陳列されているのは、最も保存状態が良いとされる数体の俑。実は、兵馬俑が発掘された当初は色彩がまだ鮮やかに残っており、生首が出てきたと誤解されたほどだったという。しかし今では、ほとんどの彩色が失われ、かろうじて背面にわずかな赤が残っているのが見て取れるのみである。3号坑に並ぶ騎馬隊は中枢を担う部隊で、体格も鎧もひときわ立派。

大雁塔 … 唐の太宗が三蔵法師を讃えた石碑が残る塔

書道をたしなむ身としては、今回の西安で最も訪れたかった場所が大雁塔でした。なぜなら、この大雁塔には、初唐の名書家・褚遂良が記した『雁塔聖教序』が残されているからです(ちなみに書道の基本となる古典を集めた碑林公園は今回の旅程にはありません)。

この碑文は塔に登らなければ見ることができず、別途チケットが必要になります。実は、今回のツアーには登塔が含まれていなかったのですが、皆様のご配慮により登らせていただくことができました。感謝です。

どれが雁塔聖教序?!

あらかじめ臨書した半紙を持参して本物と比較しようとしていたが、登塔できないと聞いていたためバスに置いてきてしまった。でも、それを残念がる余裕など皆無。

大雁塔の入口に足を踏み入れると、「お目当ての碑文がある!」と喜んだのもつかの間、複数の碑文が説明もなく展示されている。ここには『雁塔聖教序』しかないと思い込んでいたが、どれが褚遂良のものなのか判別がつきにくい。これは完全に勉強不足…。

たぶんこれだろうと見当をつけて、特徴的な文字をいくつかスケッチ。わずか2センチ四方ほどの小さな文字ながら、潔く引かれた線がとても印象的だった。

とはいえ、実際には2m近くある碑なのに見えるのは下部の60㎝ほどのみ、上部は壁に埋もれていて見ることができない。なぜこのような構造になっているのかとても疑問。

もちろん最上階にも登り、7層の塔の高さを楽しんだ。西安市内(城郭の中)は高い建物を建てることが禁止されている。そのため大雁塔からの見晴らしはとても良く市内を一望できた。階段はそれほど登りにくいものではなかったが、思いのほか太ももにこたえた。

実は傾いている大雁塔

小雁塔 … 義浄の文書を保管した静かな塔

義浄は三蔵法師と同じく唐代の7世紀後半に天竺(インド)で修業した僧。陸路で天竺へ行った三蔵法師に対して、義浄は海路で往復。

復活した奇跡の塔

小雁塔は、義浄がインドから持ち帰った仏教経典や仏画などを納めるために建立された仏塔。現在は、上部が崩れて失われているのも、古を感じさせます。

この塔には「神合(しんごう)」と呼ばれる不思議な出来事が伝わっています。1487年の大地震で、塔は縦に真っ二つに裂けてしまったが、後年の地震によって再び元通りにくっついたという。

実はこの塔、基礎部分が丸くくぼんだ独特の構造をしており、それが効果的に作用したとのこと。巧みな設計が生んだ、まさに“人為の奇跡”。唐時代の技術力の高さに唸るばかりです。

唐の宮廷舞踊

夜になり、唐の宮廷舞踊を再現した華やかな演芸を鑑賞。楽器や衣装、演目も凝っていて、最前列で迫力ある舞を堪能した。多くのダンサーの中でも、ひときわ目を引く方々がいる。夢に出てきそうなほど端正な容姿と、しなやかで美しい動きが印象的だからかもしれません。

ところで、中国ではお昼寝をする習慣があるそうで、1日4食が普通という話も。朝はお粥しか食べないのに、どうしてあれほどエネルギッシュなのか…、その秘密がわかった気がしました。

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